青ポスの部屋

旅と技術とポエムのブログ

腕時計

小学生のとき、進研ゼミの努力賞で腕時計をもらった。努力賞とはいえども課題を適当にやって出していればもらえるというもので、特に何をしたからというわけでもないサラリーマンの賞与と同じようなものだ。しかし小学生に限らず人間は、いかにつまらないものであろうと、ボーナスというものには努力するようにできているものだ。

その腕時計はデジタル表示でアラーム、ストップウォッチ、タイマーなど標準的な機能が一通りついて防水という、いかにも小学生男子が心引かれるようなものだった。「とりあえず時計が必要だけどちょうどもらえるからそれを使おう」ということで僕はその進研ゼミ時計を使うことになった。

学校にはつけてはいかなかったものの、遊びに行くときは門限の17時がわかるよう毎回それをつけ、遠足や修学旅行ではその時計をつけて沖縄や北海道に行った。高校入試以来試験でも正確に時を刻み、あまり気づかなかったがこれまでの重要なイベントのうちほとんどで僕はこの時計をつけていた。

結局、ベルト交換2回、電池交換1回を経て、もらってから使い続けて10年が経とうとしていた。このまま10年はつけたいなあと思っていたころ、大学の教室で不意におとしてしまい、それきり表示がおかしくなって、ついに使い物にならなくなってしまった。

壊れてしまっては仕方がないので新しい時計を買わなくてはならない。しかしそのとき僕は、自分がどのような時計をつければいいのかわからなくなってしまった。その時計と同じような時計にすればいいだろうとは思うが、何かがちがう。同じような機能の時計は数万円以内にいくらでもあるのだが、それだけの金を出して買ってしまうと気を使ってしまう。かといって安いものはカレンダーもついてなくてこまる。

思えば、進研時計を長い間使い続けて、僕は自分がつける時計の選択を放棄しつづけてきたのだろう。選択を放棄し続けていると、いつか迫られたときにもはや選択する権利を行使することさえできなくなる。それは何に対しても同じ、普遍的なことだ。

その後正月の狂乱の中でぱちものの時計をつかまされたりしたが、ビレッジバンガードで買った1000円くらいのシンプルな時計を使っている。これも1回バンドのバックルが破損してしまい、進研時計のものを流用してから、1年くらいは落ち着いた。しかしそのバンドも今切れそうになっており、僕は長年放棄し続けてきた腕時計に対する選択を迫られている。